本来本願の心身に無礼はうまれない

いちどだけ、
今まで降り降りていた加護が
離れる時期があります

理由があります

あわてることでもありません

四月あたりです

そのとき
貴方のことがわかり
貴方へのほんとうのことが
顕れてくるでしょう

努めてきた方々には
きちんと報いがあります

本来、本願ともいえる
本性ともいえるところから
ながれ顕れる心には
たとえどのようなときであれ
無礼や失礼というのは
ありません……

誰に対しても、です

以前、話さなかったことですが

本来の神や、
大切なちからをもつ神々は
一見すると乞食や、見窄らしさをもつもの
あるいは、ひとにとって
「劣ったもの」や「見下せるもの」の
すがたをとってあらわれられます

そうしたものに対峙したときの
あなたのすがた、おこないを
神々は見つめ、
そうして、貴方へのことを
決められるのです

善心であれと
いうはなしではありません

一見して、天使や
如来など、派手で
素晴らしく美しく
すごい力があるようにみえる方々は
「そう見せている」ことが多く

本来、幸運であれ、ご神力であれ
加護をあたえることのある方々は
その姿を
わざと、ひとより劣ったもの
下のものにとってくる、
これがこの地球の、
神さまなのです

ひとより優れたものにとってくるなら
それは、「そうしている」ものだと
いうことです

不動明王は
修行僧の出で立ちで歩かれていることが多く
それは糞掃衣とよばれる
穢れ、汚れ、やぶれた
きたならしい衣を
垂れさせてまとわれています

またお顔がさまざまに
崩れられていることも多く
目がアチコチにむかれていることもあります

また、如来尊は
ひとにあらわれるとき
「トイレ掃除」をしていたりします

そう見えるのです

なぜなら、かれらが
この世にもたらしていることは
まさに、糞尿のなかにはいり
救うべきを救い出すご尽力であり
あるいは、天にあるなら
この世の糞尿を清め祓いて
ながしおとすこと、他なら無いからです

また、そうしたご尽力にはなくても
日常や、一般的なご加護などを
されている神々は
普通の格好をされています

古めかしいこともありますし
袈裟であることもありますが
とても、普通で
その格好で
惹きつけられるようなことは
ありません

ただ、もしも
その本心、お心、ご尽力を
理解する心が、こちら側にあるのなら
かれらは、姿形ではとらえきれない
すっとした、美しさ、真の美しさを
忍びたたえていることに
気がつかれると思います

神様はそれぞれにお仕事をおもちです
けっして、個人個人の
幸運や、お金のために
いらっしゃるわけではありません

「美しくみえるもの」
「素晴らしく思えるもの」は
そう見せているだけ、

欲しがるひとたちからの
搾取と、踏みにじりにあわないよう

ほんとうの神々は
姿を隠され
また、あられるときも
目の前のひとの心をみるために
美しくはあられません

そのことをよくご理解されたうえで
もしも、あやまちを歩いてきたのなら
今一度、歩み直されてください

ほんらいの他人の
ほんとうの心をたどれる方だけが
ほんとうに、神々と
であわれます

それは人の心と
神々は、おなじことだからです

ひとを、己の目(我)でみる方は
やはり、その目にあった
そう見えるものと
つきあうようになっていきます

貴方ごとをなくして
ひとや、他の命のことをわかろうとするかたは
そうした神々にあわれても
わかろと、まず、されますから
神々の本意と
あわれることになります

釈迦牟尼とイエス

釈迦牟尼さまは「守る方法」を
イエス・キリストさまは「回復する方法」を
伝えているのではないかと
最近、良く思います

「守る」「回復する」対象は
たぶん、わかる人にはわかることですが
「魂」や「命」とある処です

どちらも「導き手」として
授けられ、
在られたのだろう、と
私は思います

釈迦牟尼さまのほんらいの「伝えてきたもの」は
難しいことではなくて
「悪口をいわない」とか
「中身の無い言葉を話さない」とか
「他人を仲違いさせるようなことを言わない」とか
無垢な倫理観のようなこと

「悪口を言わないこと」が
なぜ、「守る方法」なのか、は
エネルギーラインが見える方なら
分かるのではないかと思います

私は「わかりづらいこと」
「とらえずらいこと」は
そもそも、彼らの本来の
伝えたいことではないのだろうと
とらえています

イエスキリストさまも、
とてもシンプルで無垢な言葉を
伝えられている

「人はパンのみにて生きるにあらず」
「明日のことを思いわずらうな」
「求めよ、そうすれば、与えられる」

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私は、特定の宗教も、団体も
はいっていません

かれらとは
一人きりの、嘘偽りがつけないところで
むきあうしかないからです

釈迦牟尼さまも
キリストさまも
いまでもその、親愛なる御心が
彼らの「伝えたいこと」に
宿っていると思います

聖なる方々、
いまも、私たちの幸福を
祈ってくださっているから
なのかもしれません

もしも、私のこの経験が、
触れる方がいらしたらと思い
書き記します

スピリチュアルであれ
霊能であれ、なんであれ
神様とか、見えないところのことを、
たがいに話あわせたり

団体様に所属して
「これはこうだ」とか
「このひとはどうだ」とか
そんなことで、なれあうひつようはなくて

不安であっても
震えていても

自分の足で、自分の目で
自分の頭で、自分の心でとらえ
みて、かんじ、うけとり
あじわい、かんがえ、おもい

経験と培いを重ねていき

ただ嘘偽りがつけないところで
ただ
まっとうに真っ正直に
つたえ
ただ、なんにも望まずに
うけとるだけです

祓うために呪詛を同句で言葉にしていた方々がいたことと、その方方に落ち込みがくること

悪意なるものが流し込んできていたエネルギーは、私は「呪い」としかとりようがありませんでした

それは人によれば念に見えたでしょうし、悪霊や、マイナスエネルギーに見えたと思います

私はそれを言葉でとらえやすいのですが、それと同じ言葉、あるいは呪いのエネルギーがもたらそうとしている「あらわれ」を、文章にしてブログなどで書く方々がいらっしゃいました

方々にはふたとおりあり、まるきりあちらの傀儡と化している方々、もうひとつが、「解毒、解呪」の力を持つ方々です

解毒、解呪の作用力を持つ方々は、呪のエネルギーを己の言葉で書き表すことにより、解いて呪いにしない=呪のエネルギーを解放している

「呪いにしない」力がつよいため、その影響にそうしたことを(たぶん、無意識で)されていたようです

悪意なるものは、どんどんと破滅にむかっています

それの呪は、いま、死にたい、自分が悪い、(エネルギーにすると罪悪感、死滅感)をもたらしています

とくに「傀儡だったもの」か、無意識にそうした呪とりをされていた方々に、それがきています

呪とりとはいえ「悪意なるもの」と「同じことをいっていた」ことを、利用して流し込んでいるようです

かみさまは、あなた方を祝福しています

気落ちと、罪悪感、自分がわるいとか、死にたいとか、理想や自分の好みを人に被らせてきた、とか、そんな気ぶんがたちあがる日々ですが、どうか負けずにいらしてください

カクリヨでラグナロクがおこなわれている昨今に、わからないまま、認識できないまま、それでも、人を思う人は、人のために動かれています

呪詛は一種のモラハラのようにながれています、「理想を押しつけてきた」「人が傷つくようなことをしてきた」ように感じるあなたに、まわりのひとがほんとうの信頼と好意をよせているなら、もしかしたら、その態度は上辺にそうみえるだけで、カクリヨでは「呪詛をとってきていた」効果があったのかもしれません

光と夜、真怒は祓いをなす

そろそろ、おのれの背負っていたものが、ボロボロあらわれるころかと思われます、「ひとのこと」など神はあなたに采配していません、あなたにもたらされているのは、つねに「あなたのこと」です

ほんとうの、真心からわく怒りは祓いをもたらします、それは悪意ではなく、善心のひとつだからです

ひとは、前少し書き記しましたが、悪意そのものの存在に、深い怒り、くるうほどの怒りを、誰もが抱えています、

だからこそ、今ここに生きている方々は、いまこのとき、この時代、すなわち「ラグナロクにうまれて、いきる」ことをされたのです

真怒を抱えていながら、それを「わすれて」生きているのが、いまの多くの方々です

怒りは祓いとともに、そこにある常態を破壊します、ですから、己に内包する怒りが深いほど、ひとは「わすれる」ことで、バランスをとっているのです

カクリヨはすでにひらいてあります

そこをとおして流れ顕れる「怒り」や様々な「こと」に、あなたが見せた「姿」、このふたつは、あなた、そのものです

説明がしづらいのですが

そこに顕れたモノは、あなたの心に内在するモノと呼応しています

(悪意そのもののモノと、その傀儡たちは、地球や創造主がうんだものではないので、あなたではありません)

カクリヨのなかで、みていたひとたちは、己と向き合う人たちです、ですから、このあとなにがあっても、自分には力があることを信頼されてください

2016年の冬からそれははじまりました

そのときから、いままで、なによりも恐ろしい「己の闇」と、あなたは、常に、ともにあったのです

そうして、みんな、逃げもせず、その闇と話していました

たとえそれが他人に見えていたとしても、「話そうとしていた、伝えようとしてきた」ことは、いついかなるときも、うしなわれたりしません

「貴方を生きること」をやめないでください

たとえ、力のある某が、あなたを従わせようとしても、そうした存在よりもあなたが間違いをふみやすかったとしても、あなたの意見をもって、あなたを「伝えようとしてきた」、貴方がそこに生きていることを、失わないでください

能力者のかたは、闇ばかりの方と光ばかりの方でわかれています

闇ばかりの方は、悪意と、夜で、わかれています

夜にいらしたかたは、このあと、あなたの光をしることになる、光ばかりにいらした方は、夜を、しることになる、

無知であれば非難できたことは、知ってしまえば、できなくなる

知ってしまえば、視野が、かわる

そのとき、なぜ、光でも、善心でもなく、愛がもっとも最強のちからをもつのかを、知ることになるでしょう

うけいれること、ゆるすこと、優しいことで表す「アイシテル」など、所詮はまやかしです

地球の闇(内からくる病、あるいは夜)と、悪(外からくる病み)の異なり

地球の闇は、病でも、くらがりでも、ほんらいのものならば「悪性」ではなく「問う気性」をもつものにすぎません

それが現れるあいだ、ひとは、己を問う、そうしたことが、地球の「闇」のもつ性質です

むかしは「悪」はこの悪性を指し示し、いまのように「よくないこと」の意味ではなく「己ではないこと」や「あやまち」や「ゆがみ」を示していました

いま、「悪」は、多数の人のあいまいなイメージでは、その悪とはほどとおくあります。それは「悪」にふたとおりのモノがあらわれ、まじってきたからです

人に実害をなすことを「悪」とみるなら、この実害はじっさいは「侵害」であり、それをもたらしている「モノ」は、エネルギー界隈では、「地球がうんだものではない」モノです

外からくる「侵害」の性質をもつ「悪(闇、病み)」は、ふつうならば「穢れ(ストレスのようなもの)」として、付着します

どうしても、毎日付着します、ひとはこれを日々「ストレスをはらうごとく、自然に、無意識にはらいのけている」、そうして生活しています

まえも書きましたが、たまに被ると「意地悪な気持ち」になります、ふつうの方々は、その程度ではらいのけています、不安になることはないのですが、つまり「悪意」というのは「地球ほんらいのものではない病み」ですから、はらいのけて、のることなく、すすむほうが人間の生活はよくなります

地球ほんらいの、エネルギー界隈の「闇」は「夜」の性質をもっています、それは安寧であり、死にたいし向き合うこと(=生にたいし、向き合うこと)をもたらし(=メメントモリ)、また、「内省」をもたらします

眠る前に一日が思い出されるときは、エネルギーの「混沌(混乱)の整頓」があらわれています、その状態で「改善」がしょうじたり、道をあきらかにできたり、これが、地球ほんらいの「闇」です

死地にあるかたで、方々のなかには「深いしずかな夜のような闇」につつまれ、眠られているときがあります、

それは生という「光さす日々」のなかであったことの、さまざまな癒やしをもたらす、しずかな眠りです

地球ほんらいの黒、ほんらいの闇は、けっして悪意なるものではありません

「盲目」であることへの自覚と、過ちは常にあるのだから怯まないこと

盲目の人群れが象をなでて、どういうものかを論じてる、有名な「悟りというものの人の風景」をあらわした言葉ですが、神様のことや、見えない世界のこと、スピリチュアルや霊能ごとについても、これがあてはまります

ひとのみえる範囲は「人の目」の範囲でしかありません、それは見えない世界でもです

神様は巨大です、創造主たればなおも巨大で、人間がふれることのできる範囲は、どこまでいっても「かけら」にすぎない

正しくない、というより、誰もが、どこまでも「部分的」なままで、今なお霧の中にある世界にたいし、何とか知恵をよりあつめ、生きている、なんとかしていっている、それが、見えないところにかかわる、スピリチュアルや霊能者の世界なのだと思います

すべてを見通せる人などひとりとしていないのです

ラグナロクにおいては、毒霧もおおいですから、(呪詛と祟りがいきかってる)、神々のなかには、「あちらがわの解釈を持ち出すもの」をすべて「毒者」と見なす方もいらっしゃいます

さまざまな方々が、なんどか彼らに怒られているのですが、人間の身である私から、伝えられるなら「正しきは正しきに座る」ものですから、「なにがどう」というより「あなたが善意であったなら」神々の祟りに右往左往する必要はありません

人間はつねに無知無明です、これはもうしょうがない、だから間違えもするし、己の目には、範囲があるのに、己の目(のみが)正しいと思い込む(見えたもの、聞こえたものに頼ろうとする)

神々はこれからどのような神々であっても、その存在を濃くしていかれますから(おおいなる、主たる神様が、ここからさきは、そうした世界になることを望まれたのです)神々に怒られていたり、自己の目が間違っていたことを指摘されたり、もっとかなしい話ですが……ひとりひとりが、己の正しさを信じ、おこなったり、のたまったりしてきたことの、なかには「悪意であったこと、悪意にのまれていたこと」があったこと、それをあきらかにされたりするかもしれません

裁きの神は盲目であり、耳の聞こえない神のおひとりです、見えたもの、聞こえたことに頼らないからこそ、完全な公平をもたらされます

「あなたが善意であったなら、過ちもまた善意によりつぐなえる」
あなたが行為をする前に、座る場所があなたの真心であったなら、それは、神々は、許されます

ですから、難しいことかもしれませんが、なにがあっても、なににも惑わされず、己の真心にすわられて、そこから立たれ、そこから動かれてください

ひとは過ちをふみしめながら、それでも生きていき、よりよく生きようとするものです、神々が怒りをもつことを貴方がしていたとして、善意により行っていたなら、それを伝え、また、やりなおされてください

一言伝えられるなら、あなたでいる他ないのです、他人はおろか、神々にさえ、あなたを貴方でないなにかにかえて、気に入られようと生きることは、できない(しても、無理になる)

ですから、あなたが盲目の群のひとりであること、ほかのひともまたそうであることを、できることなら理解して、そのうえで「あなたの真心から生きてください」

過ちをおそれず、怒られることを恐れにせず

ちなみに、神々が怒るということは、それは祝福にすぎません、このことはまた後ほど記述します

ダークサイドのエネルギーは「魂の病(闇)」、悪とは何かについて

このようなことを書くとおびえる方もいますし、あまり意味のないことかもしれません、人のためと言うよりは、「とある証のため」にすぎません

ダークサイドのエネルギーの根元は、悪霊でも悪魔でもなく、そうしたものにとりつく「悪意そのもの」であり、それは魂の病(闇)です

現実にそんざいする「ウイルス」は不完全な生命体になりきれないものでありますが、そのような「悪意そのもの」の「ウイルス」が、魂の次元にそんざいしており

それに罹患した魔物が悪魔とかわり、霊が悪霊とかわるわけです

悪魔信仰者は、おもてむき「神を信仰している」としてカルト的な宗教をしていますが、かれらの信仰がいきつくさきはこの「悪意そのもののウイルス」であり

すなわち、スピリチュアルなひとでも、霊能者でも、ウイルスに罹患することによる「病状」を「魔力(あるいは霊能力)」と誤解している一群がある

かれらは、えにし(人とのつきあい)をたどると、どこかで「悪魔崇拝者」すなわち「悪意そのもののウイルスを信仰しているもの」とたどりつきます

魂のウイルスですから、濃厚なつきあいがあると病状がうつります、それをかれらは「特別なちから」としているわけです

悪意そのもののウイルスは、悪魔崇拝者にはスゴイモノにみえ、神様といらっしゃる方には時には悪霊に、時には悪魔にみえるらしいです

その実体は不完全な、生命体ですらない「魂次元のウイルス」であり、エネルギー的には「悪意そのもの」なものです

ウイルスは、不完全な疑似生命体ですから、奇妙な疑似指令を生命体におくりつづけます

肉体の場合は、こうしたことで肉体が破損損傷していくわけですが

魂次元の場合、それは「脳内の指令」としてあらわれたり、あるいは「奇っ怪な行為への錯妄」としてあらわれたりします

これは「精神の病」とはまたぜんぜん別の症状です

すなわち、罹患した魂からくる奇っ怪さをもちながら、そのウイルスの指令を「素晴らしい知識だ」とし、これを「啓蒙、あるいは人のための知識のひろめ」として宣い、

魂からくる異常性を「スピリチュアル、あるいは霊能、あるいは信仰」でごまかしながら「それをせざる得ない錯妄」が、その症状です

「ウィルス」は他者に罹患して広まっていくのを望むものでしょうか? 疑似似非、生命体になり切れない不完全なそれは、確かにそれを望みます。

ですからそのウィルスに罹患している方は、その症状を「すごい力」「すばらしいこと」としながら「他人に接触することを望み続ける」、

まともな人が、それをはたからみると「がめつい、きたならしい、詐欺的な商売」をしているように見える、しかしその蠢きは「金銭を搾取すること」よりも「他人に接触すること」、そして「ウィルス崇拝をさせて魂を病にすること」を重要視しています

そうした罹患者が、規模が小さくても「金銭搾取なカルト系」の組織形態をきづきがちなのは「金銭豊富なほうが、ひとがあつまる、神様やスピリチュアル、救いをほのめかしたほうが、【よりいっそう、弱った人が集まる】」からです、

ポイントは「弱った人が集まる」ところです

「魂のウィルス」にすぎませんから「弱っていればいるほど」罹患しやすい(させやすい)わけです

逆に言えば「弱った人が集まりやすい」形がそうした「金銭搾取的なカルト的なシステム」なんですね

おもてむきは「豊かで、めぐまれていて、不思議な知識やちからで幸せになっている人たちが頂点にいる」感じですね。裏をみると「必死に奇怪な命令に従って演じている人たちがわけもわからず金銭搾取をおこなって、弱った人にウィルスエネルギーをぶつけつづけている」感じです

聖書のとおり、サタンはこののち、みえない世界の最大火力にてやかれます

それはサタン(悪魔)が、そうした「悪意そのもののウイルスのおんどことなり、なおかつあたり一面に罹患させる【根元】となってしまった魂」だからです

簡単な罹患はたまに、ひとにもあります、意地悪になったり、悪い気持ちになったり、ですが、まともであれば、それはすぐに抜けていきます、(その時、わるかったなぁ、わるいことしたなぁ、とかいう気持ちになります)、むしろ抗体免疫がついたりします (その時、自分を改善しよう、とかいう気持ちになります) から、おびえることはないです

風邪みたいなものですね

内緒ですが、ワクチンも見えないところで開発され、配られているので、まともに生きている人たちは、心配することはありません

懸念しなければならないことは、そうしたウイルスからくる「病状」を「能力」としている方々です

かれらは、たどれば「ウイルス信仰」にたどりつきます

おおいなる源、創造主、主たる、おおきな神様は、「悪意そのもののウイルス」を神とあがめ、崇拝し、なおかつそのウイルスに好き好んで近づいて、罹患していき、魂の病をまわりにふりまいて、ほかの子たちをも魂の病にしようとする彼らに激怒されています

怒られるたびに、かれらは奇妙な反発をしていましたが……

しかし神様の怒りよりも、ウイルスの症状が奇っ怪さをましていて、たとえば病と気がついた時、病状が意識できるようになった時には手遅れである肉体の病があるように、魂のウイルスの症状も、「意識できるようになっていく」らしい、こののち、ウイルスはその症状を「肉体の次元にあらわしてきます」

かれらのそばにいらっしゃる方で、改心できた方は、幸いですから、聖なる神様の信仰に戻られた方が良いかと思われます

生命体をまもる神様▼

覚悟の勧め

多分この先一番かなめになるのは
自分を自分で生きていく「覚悟」なのかな、と
おもいます

愛をもって生きるには
「やさしさ」や「甘さ」ではなく
勇気がいります
自覚するにも勇気がいります

「逃げる方が楽」です

「愛」は、言語化できません

ただ、多くの人が
なんとはなしに
いまもうすでに
抱いています

手放した方が楽だから
見ないふりをする時も
多いようです

「人間が愛しい」という「自分」を
自分をもって生きること、

「自分という存在」を前に
腹をくくることは
勇気がいります

それでも、そうした「覚悟」が
たぶん、この先は
もっとも、重要なことになるのかもしれません

神と人は心でつながること、見えない神様が見えるようになること

神が具現する時代

これから、誰しも、神様やみえないものを観るようになります、

神様とかそうした方々が具現化していくためです

いままでのように、特定の「目」だけがとらえられる、ふわふわとしたもの、ではなくなり、具体の神体をおもちになってあらわれるため、誰しもが、方々を「普通の目」でみてとるようになっていきます

波動は指紋とひとしく、一人一人

誰もが見えるようになってくると、誰もが、波動を感じられるようにもなっていきます

波動は声紋や指紋とおなじく「個体」がもつ特有のものであり、

また「帯域(存在のグループ)」によっても、波動の紋様がわかれています。大天使、神様、如来、観音、天部、すべて波動はことなります

たとえばミカエルをなのる個体があって、その波動を感じ取ることによって、真実、大天使なのかどうか、そして、その上で、大天使のミカエルなのかどうか、確かめる感覚が、「人間」にはそなわってあるということです

不動明王の波動はわりと感じ取りやすい

不動明王の像をまえに「波動を感じてみよう」とすると、もしかしたら他のところより、わかりやすいかもしれません

仏像は勧請された方により様々なお顔をもたれてあります

不動明王は不動明王の波動をもっていらして、それは明王の帯域にあられ(ほかの明王とおなじ帯域)、またそのうえで、個々の不動明王尊像は波動がことなるのです

たまに、ミカエルと不動明王は一致しています……(一致=同一相としてあらわれていること)

たぶん、ご覧になられる方ならすでにご存じでしょうね

ミカエルの双子となだかい、ルシファーもまた、不動明王と一致されていることがあります

不動明王は、ルシファーと同一相をおもちの場合はシヴァよりの明王相、ミカエルの場合は釈迦よりの明王相をもたれていらっしゃいます

……

神は人とは心でつながります

不動明王とよくあられる方は、己の真の怒りとむきあわれていらっしゃる方です

混迷の時は、人を愛する

これからどうなるのか
私はしりません
知っている方もいらっしゃいますが
そうした方は
昔では「エイヤ(預言をもつひと)」と
よばれていました

予言と、預言はことなります

神様のことばを
あずかるかた、が
預言をもつひと、でした

未来を当てる人ではありませんでした

……

混沌としたものが
下ではいりまじり

ひとつの神様により
悪意には、さよならが
あたえられていて
あたえられつづけていて

それでも、悪意のものものらの
執着はすさまじく
神から、わかれを与えられるたび
かれらは、無差別に
呪詛をはきつけている

悪意の根源的な存在は
圧倒的な孤立をかかえているため
エネルギーの交流がある場合
つまり、かれらを利用していたり
かれらとともにいたり
していた場合、
ここからさき、
圧倒的な孤立に
徐々におちていくかと思われます

……

神様とあるかたは別で
やはり人は、ひとで
ひととの縁、
一人で生きているわけではないこと
己と他者のことを
神様は理解されているから

そうした方々とともにあられる方は
そうしたエネルギーといきかいがあるので

縁に、どこかしら感謝することがあったり
また、困ったことがあっても
誰かが、かならず
ともにいるかたちに
おさまることが
多くなりそうです

……

下(共有界の下)が
混沌をきたしているので
混乱したり、喧騒があったり
するかもしれません

あるいは、ふと
己の闇にはいりこんでしまったり
人の心の闇に
まきこまれてしまったり
するかもしれません

……、愛する、は
もっとも、強くタフな状態ですから
そんなときは
愛する、を
されてください

道がひらけます

たとえ、意志や、好き好んだことでは
ないことがおきても
愛する、から、おきることは
かならず、あかるく温もる道のりになります

愛する、は
意識的な「愛しているわ」では
ありません

愛せないものを
言語思考でねじまげて
意識上では
愛していることにする、ことでは
ありません

愛する、は
命をもった
体当たりみたいなものです

意識的な
見栄みたいな、ふりまくような
「私はみんなを愛しています」は
これからさきは
しないほうがよいです

ひとは、
ほんとうは、愛していないとき
そうすることが、多い、です

愛するは、言葉ではないし
ほんとうの、愛する、は
宣伝として
つかえるものでは、ないです

……

愛する人がいるなら
幸運です
愛が心にわかるのですから